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三国干渉とその後

当時ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発した。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを4月23日日本政府に要求した(三国干渉)。日本政府には、列強三か国に対抗する力は無かったため、これを受け入れ、その代償として清から3000万両を得た。以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金および利子3億6千万円を、日清戦争戦費(2億2247万円)の3割(7900万円)の補填と次のより大規模な戦争のための軍備拡張費(2億円)とし、その他八幡製鉄所の建設と鉄道・電信事業の拡充および台湾の植民地経営など、国力充実と対外拡張のために使用した。[18]

戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、中国分割に乗り出した。ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借した。

下関条約による台湾の割譲は台湾に住む人々にとっては寝耳に水であった。彼らは三国干渉に力づけられて5月25日清朝を宗主国とし、台湾巡撫であった唐景崧を総督とする「台湾民主国」を建国する。日本は条約の批准書交換後、樺山資紀海軍大将を台湾総督とし、北白川宮能久親王率いる近衛師団を台湾現地に派遣した。5月29日近衛師団の台湾北部への上陸後唐総督らは台湾を脱出するが、清仏戦争の英雄劉永福が民主国政府により大将軍に任じられて台北陥落後の抵抗を担い、台南において地元民(高山族)を中心とする頑強な抵抗が続いた。

樺山総督は6月政府に増援を要請、遼東半島の乃木希典中将(後の第3代台湾総督)率いる第二師団を増派し二個師団を上回る兵力が台湾占領にあたった。住民の武装抵抗のほか、赤痢やマラリア、脚気による被害で8月中旬以後日本軍の各隊の罹患者が5割を超える事態となった。攻略作戦は11月末には一応終了したが、日本が大本営を解散するのは1896年4月であり、この平定戦での動員兵力5万のうち戦死者は日本軍164人であるが、マラリア等による病死者は近衛師団長北白川宮能久親王はじめ4642人にのぼり、中国側兵士、住民およそ1万4千人の死者を出して終了した。[19] こうした抵抗はこの後も続き、1896年4月には民政に移行するが、総督は軍部が独占して日本による台湾統治は武力による支配という様相を強めることとなる。


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2009年06月01日 13:38に投稿されたエントリーのページです。

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